裏垢女子ブログ

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オタクを書いたコンテンツ「オタコン」について

ここ数年、「オタクを描いたコンテンツ」をよく目にする。
 twitterからあまりの人気ぶりにより書籍化までした『腐女子のつづ井さん』(2016)、地下アイドルのトップヲタやアイドルの頑張りを描いた『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(2016)(大好きです)、『ネト充のススメ』(2015)、『海月姫』(2009)、『浪費図鑑』(2017)『メタモルフォーゼの縁側』(2018)と、枚挙にいとまがない。オタクという存在は「漫画」「アニメ」「ゲーム」「アイドル」といった「コンテンツを愛するもの」だったのに、今は「コンテンツを愛するものを描いたコンテンツ」が増えているのである。なんだかメタな話だ。

 なぜ今「オタクを描いたコンテンツ」(以下、「オタコン」とする)が増えているのかについて考えてみたい。

(※上記()内は書籍1巻発売年度です。)

目次
オタクに対するまなざしの変化
「オタクを描いたコンテンツ」の魅力
①オタクは読者(視聴者)よりも下等な存在であり、かつ謙虚である(ように描かれる)
②オタクする感情はポジティブなものである
③「ありのままの自分」を受け入れてくれる物語構成
④「みんな」を拒絶するものとしてのオタクへの憧れ
⑤日本国民総オタク化社会
オタクに対するまなざしの変化
 今でこそオタクに対してポジティブな印象があるとはいえ、少し前まで状況は違ったように思う。

「ぼくたち、付き合い出してもう3年か、ねえ、サファイア・・・・・・。きみは、僕のヒロインだ。宇宙怪人と戦う女だ。それに美しい。怪人どももきみにはいちころさ」
 眞野は『踊る大捜査線』(1997)が大好きで一年に一度は見返すのだが、このドラマでのオタクの描かれ方はひどい。「第5話 彼女の悲鳴が聞こえない」においてヒロイン・恩田すみれはストーカーに暴力を振るわれ、骨折までしてしまう。このストーカーは美少女アニメのオタクなのだが、現実と空想の世界を混同しており美少女戦士とすみれを混同してしまうという設定であった。伊集院光演じるストーカーは太っていてアニメキャラのTシャツ着用、部屋の中にはポスターやフィギュアがいっぱいといういわゆる「キモオタ」としての記号で構成されている。和久さんも青島くんに対し「まさかお前も何かのマニアっていうんじゃないだろうな」と発言している。90年代の「オタクは気持ち悪く、犯罪者予備軍である」という認識が反映されているといえるだろう。

 その後このオタクへの厳しいまなざしは『電車男』で緩み(しかしこれは「女性を救った」という善行により「マイナス」から「普通」になった、という「物語」である。)、芸能人の中にワンピースなどが好きなことをアピールする「自称(?)オタク」が増え、という段階を踏んで今がある、気がする。また、「絶対的な正解」が失われ、むしろユニークであることに価値が生まれる時代になってきたことも関係があるだろう。このあたりももう少し考察してみたいが、脱線しているので本題に戻る。

 


「オタクを描いたコンテンツ」の魅力
 そう、本題だ。なぜ今、「オタコン」が増えているのか。その魅力とはなんなのか。眞野なりに考えてみた。

①オタクは読者(視聴者)よりも下等な存在であり、かつ謙虚である(ように描かれる)
 オタクは、己がオタクであることに一抹の後ろめたさを感じている。いや、本当にオタクがそのように感じているかは一概に決めつけることはできないが、少なくともこれらのコンテンツの多くで主人公は劣等感やコンプレックスを抱いているように描かれているのである。
 もちろん自分のしている行為に対するプライドや、確固たる自信のようなものは見え隠れする。しかし、自分たちが「一般人」からどのように見られているかを省みた時のことを冷静に分析できてしまっており、結果的に卑屈になる。そのような姿は一種の「謙虚さ」として目に映り、好感へと繋がるのではないだろうか。

 またオタクは自分の持てる全てを愛するものに捧げている。それは時に滑稽なものにも見えうるのだ。
 例えば『推しが武道館いってくれたら死ぬ』のえりぴよは定職につかないフリーターである。そしてアルバイトで稼いだお金を全て推しに費やしているため、学生時代のジャージしか服がないという徹底ぶりである。また、彼女はグループの中でも不人気なメンバーである舞菜を推しているため、一日に何件も名前を変えてブログにコメントをするなどの工作をしている。

 

 これらの行為はオタク当事者以外から見ると理解不能である。同じCDを何枚も買うなんて勿体無いし、服装に気を使わず、就職もしていなんて社会に適合できているとは言い難い。そんなオタクたちよりは一般的な視聴者、読者のほうが社会に適応しているという点では「上位」に立っている、ように思われる。そして自分のほうが上位に立っていると思わせてくれる対象のことを、人は好むのだ。

 


②オタクする感情はポジティブなものである
 オタクたちは、自分の「推し」を無条件に愛する。たとえ全世界に「NO」を突きつけられても、己が「キモい」と言われても、「推し」は絶対的に「推し」である。世間体は気にしつつも推しへの感情は変わらない。そこにあるのは無償の愛なのである。

 先述した『推しが武道館いってくれたら死ぬ』の不人気アイドル舞菜はその純粋な性格ゆえに自分を推してくれているえりぴよに対して素直に接することができず、塩対応をしてしまう。その塩対応ぶりは有名であり、オタク仲間からもえりぴよに対してつっこみが入るのだが、そのときに彼女が言い放ったセリフがこれである。

だってほら 舞菜は生きてることがわたしへのファンサだから 生きてくれてさえいればいいから 同じ時代に生まれたこと そして舞菜のご両親の出会いに感謝
 推しも尊いかもしれないが、本当に尊いのはこの親にも劣らぬ無償の愛だ。そしてこの圧倒的な「YES」にはポジティブな力がある。「オタコン」にはこの世の中を照らす光が満ちているのだ。
 

③「ありのままの自分」を受け入れてくれる物語構成
「オタコン」の多くでは、内面は成長はすることはあれど、オタクという性質はそのままでより良い人間関係を築いていく構成がとられている。
 例えば『海月姫』において黒髪ひっつめ三つ編みでスウェットばかり着ているヒロイン月海は見た目や言動、全てがオタク的であり、男の人に受け入れられる容姿ではない(もとのビジュアルが悪いというよりは身だしなみができていない状態なのだ)。

 

 しかし、最終的には想いびとである「お兄さん」に

できるよ月海さんなら いまやっとわかった 君が月海さんだったんだね
 と、全面的に受け入れられ、プロポーズまでされている。お兄さんは美しく変身した「アフター月海」を好きになり、その後月海の本性を知ってもそれを受け入れる、という入り方だが、美少年・蔵之介に至っては激ヤバだったころの月海のことを好きになってしまっている。

 また、『トクサツガガガ』において、仲村は最初特オタであることを周囲にひた隠しにしていたが物語を通じてオタク仲間を作ることに成功している。(ドラマ版のナレーション、初回は「彼女が特撮オタクであることは誰も知らない」だったのにいつのまにか「一部の人間しか知らない」になっていて泣いた。)また、「特オタだからこそ」弱い人を見過ごすことができなかったりして周囲からの評価が上がっている。

 オタクをを受け入れてくれる物語は、主人公を通じて我々のありのままを肯定してくれるのだ。

④「みんな」を拒絶するものとしてのオタクへの憧れ
 オタクは大多数から拒絶されるかもしれないが、しかしそのときオタクもまた大多数を拒絶しているのである(ニーチェ的なことを言ってしまった)。 

 『トクサツガガガ』の仲村は特撮に自分の持てるリソース(お金・時間)を使いたいがために、「みんな」を敬遠している。会社での飲み会、休日のバーベキューや同僚とのお出かけ、残業への付き合いを極力避けようとしているのだ。
 まあただ仲村はそれでも「みんなと適応している風」をどうにか醸し出したい、「みんな」とうまくやっていきたいという希望がゆえに苦戦し、そしてなんとかそれに成功していると言える。
 しかし『海月姫』のオタク軍団「尼〜ず」はどうだろう。
 そもそも「尼〜ず」のコンセプトは「男を必要としない人生」というものであり、何らかのオタクである女子であることを条件にメンバーになることが許されるのである。逆に言えばこれは「男」「男を必要としている人」「オタクでない人」への拒絶である。

  たとえば「おしゃれ女子」に見える存在である蔵之介(実のところは女装した美少年だ)は、下宿に遊びに来ただけで

その...ハッキリ言わせて頂きますと...みんなあなたと仲良くなりたいとは特に思ってないと(中略)もう天水館にはいらっしゃらないでください
と言われてしまう。これは逆差別であるといえよう。
 『海月姫』は顕著な例ではあるが、オタクが「みんな」に「NO」を突きつける存在であるという一面を持ち合わせていることは確かである。そして実はオタクでなくとも「みんな」に疲れてしまっている人は多い。だけど「みんな」とうまくやっていかないと生きづらいので、どうにかやっているのである。そんな我々にとってオタクの生き様は、ある意味うらやましいものなのだ。

⑤日本国民総オタク化社会
 まああとはこの時代、程度や対象に差はあれど、なんらかの「オタク」になっている人が多い気がする。なので「オタコン」は、受け手に対し「自分のことだ」と思わせる力があるのではないか。

 


 これらの理由から、いま「オタコン」に対する需要は高まっていると考えたのだけど、どうだろう。

 つらつらおもいつくまま書いていたら4000字を超えてしまった。ここまでもし読んでくれているかたがいらっしゃったら本当にありがとうございます。